2022年の幕が上がった。昨年はカープ、サンフレッチェ共に、思うような結果を残せなかったが、若手が台頭するなど、未来への希望を抱かせてくれる戦いを見せてくれた。また、東京五輪が開催されるなど、スポーツがおおいに盛り上がった一年になったと言えるだろう。

 広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。そこで、昨年特に反響の多かった記事を振り返り、2022年のスタートを切る。

 ここでは、サンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。今回は、点取り屋のイメージが強い背番号「9」を取り上げる。(2021年6月30日掲載)

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今シーズンもサンフレッチェ広島で9番を背負うドウグラス・ヴィエイラ。

 サッカーの背番号9といえばセンターフォワード、つまりストライカーの番号だ。ただサンフレッチェの9番の歴史を振り返ると、つける選手が頻繁に変わっている。いずれ今連載で取り上げるが、固定背番号制が始まった1997年から2000年代前半まで得点源として活躍した久保竜彦が10番、その後に2005年から2016年までエースに君臨し、J1・J2通算220得点を記録した偉大なストライカー、佐藤寿人が11番をつけていた影響だろう。

 前述の1997年、最初に背番号9をつけたのはオーストラリア国籍のFWアーノルド。連載第3回で紹介した同胞のDFポポヴィッチとともに加入した。来日当時は33歳、キャリアの晩年で、1年目はリーグ戦で6得点を記録したが、2年目の途中で退団した。

◆居酒屋で行われた、驚きの入団会見

 2002年から2年間、9番を背負ったのが高橋泰。知らなければ読めないはずだが、泰と書いて「ゆたか」と読む。1999年1月の帝京高3年時に高校選手権で大活躍して注目され、大会後にサンフレッチェがオファーを出して獲得に至った。

 少し本題からそれるが、このときの加入発表会見が面白かった。高橋の実家は東京都内で居酒屋を営んでおり、その店内で行われたのだ。当時の強化部長が生ビールのジョッキ、高校生の高橋がウーロン茶のグラスを持って乾杯、という、現在なら賛否両論ありそうな写真撮影だったのが印象深い。

 高橋は26番、14番を経て、プロ4年目に9番を託された。その年にサンフレッチェはJ2に降格してしまうが、翌2003年はシーズン序盤に1試合4得点を記録するなどスタートダッシュに貢献。J1に復帰した2004年に期限付き移籍でサンフレッチェを離れ、その後は多くのクラブを渡り歩いたが、各クラブで昇格に貢献して印象に残る活躍を見せたのは、確かな実力があったからこそだ。

 2009年途中から9番をつけた李忠成は、加入1年目は出場機会を得られずに無得点に終わったが、2010年は出場機会を増やして11得点。活躍が認められて日本代表に選出されると、2011年1月のアジアカップ決勝で、日本を4回目の優勝に導く決勝ゴールを決めた。2011年はリーグ戦でも15得点を挙げ、翌2012年にイングランドのクラブに移籍。疾風のように駆け抜けていった印象だ。

 その後の2人の9番は、それぞれサンフレッチェの黄金時代に躍動した。2012年に加入した石原直樹は豊富な運動量やスピードを生かし、シャドーのポジションで活躍。下がり目の位置から前線に飛び出して多くの貴重な得点を決め、リーグ戦で7得点を挙げて同年のJ1初制覇の立役者の一人となった。さらに翌2013年は10得点を記録し、2連覇に貢献している。

◆21得点を挙げる大ブレイク!3度目のJ1制覇に大きく貢献

 石原が移籍した2015年に加入したのが、ブラジル国籍のドウグラス。徳島ヴォルティスからの期限付き移籍で、前年にJ1で活躍できなかったこともあり、大きな期待はかけられていなかった。しかし、シーズン途中から石原と同じシャドーのポジションでチームに融合し、終わってみれば21得点を挙げる大ブレイクで、3回目のJ1制覇に大きく貢献した。

 翌年の9番も印象深い。契約の問題で退団したドウグラスに代わり、新たな得点源として加入した元ナイジェリア代表のピーター・ウタカは、高い身体能力と巧みなボールキープを駆使して得点を量産。ドウグラスよりも少ない19得点ながら、2012年の佐藤に続くクラブ史上2人目のJ1得点王に輝いた。

 現在はブラジル国籍のドウグラス・ヴィエイラが9番を背負う。加入1年目は20番、サンフレッチェの前に所属していた東京ヴェルディでも1年目は17番だったが、2年目から9番をつけていた。変更の理由を聞くと、子どもの頃にあこがれたストライカーにあやかっているという。

◆自らリクエストした憧れの背番号9

「9番をつけていたブラジル代表のロナウドに、子どもの頃からあこがれていたんだ。ヴェルディでもサンフレッチェでも、1年目は別の選手がつけていたけど、2年目に空いたので、リクエストして変えてもらったんだよ。自分にとってはお守りのような背番号で、運気を上げてくれるんだ」

 ロナウドは、1990年代前半から2000年代にかけて活躍したサッカー史に残るストライカー。スピードとテクニックを生かし、1人で何人もの相手選手を抜き去る驚異的なゴールをいくつも決めて『フェノメノ(ポルトガル語で超常現象、怪物などの意味)』のニックネームで呼ばれていた。

 ロナウドは2002年に日本と韓国が共催したワールドカップで得点王に輝く大活躍を見せ、ブラジルを優勝に導いている。当時14歳のドウグラス少年は、興奮しながらテレビ中継を見ていたそうで「こうして日本でプレーすることになるなんて、そのときは夢にも思っていなかったけどね」と笑った。

文/石倉利英(スポーツライター)