広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。ここでは、2021編集部セレクションとして、昨年特に反響の多かった記事を振り返る。

 今回は、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る企画。輝かしい記録とともに球史に刻まれている「26」を取り上げる。(2021年5月30日掲載)

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現在は二軍打撃コーチとしてチームを支える廣瀬純。

◆伝説となった『21球』、前人未到の『15打席連続出塁』

 カープ創設年の1950年から2021年まで、合計で72シーズン。今回取り上げる背番号『26』はそのうち2年のみブランクがあり、1年だけ2選手がシーズン途中で共有しているため、のべ71シーズンにおいて“稼働”していることになる。そのうち、39シーズンが投手で、32シーズンが野手。その割合は拮抗している。

 この連載ではどうしても、その番号を長く背負った選手にスポットを当てることが多くなりがちだが、使用年数は短くても大きなインパクトを残した選手もいる。1978年から1980年まで3シーズンのみ『26』を背負った江夏豊などは、その典型だろう。

 江夏は1966年のドラフト会議で4球団から1位指名を受け、阪神に入団。背番号は入団当初のみ『71』で、すぐに候補の中から自ら選んだ『28』になった。

 ルーキーイヤーから最多奪三振(225)を記録して新人王も獲得。翌1968年には401奪三振で日本記録を更新するなどメキメキと頭角を現し、1973年には史上初めて延長戦に及んでのノーヒットノーランを達成。自らのサヨナラ本塁打で試合を決めるというダメ押しも含め、いまだ2人目が出ていない快挙となっている。

 他にもオールスター戦での9者連続奪三振などエピソードに事欠かず、タイトルも多く獲得したが、1975年シーズンからはトレードで南海に移籍。だが、そこで感銘を受けた野村克也監督の解任に伴い、再びトレードを希望し、1978年にカープでプレーすることになったのである。この時、背番号は阪神時代に近い『26』となった。