広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。ここでは、2021編集部セレクションとして、昨年特に反響の多かった記事を振り返る。

 今回は、時代を彩ったカープ選手の足跡を背番号と共に振り返る企画。打撃はもちろん、俊足堅守が魅力の選手も多い背番号「38」を取り上げる。(2021年6月26日掲載記事を一部編集)

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50m5秒5の俊足を誇り、代走のスペシャリストとしても活躍した赤松選手(現・二軍コーチ)

 今回取り上げる背番号は「38」。以前、「34」の項で「30番台以上は、ドラフト入団のルーキーが最初に与えられて、活躍とともにもっと若い番号に変更されるケースも多い」と書いた。その例に違わず、この「38」の歴史にもドラフト経由のルーキーが見受けられる。

 その第1号が、1966年入団の水谷実雄。宮崎商で2度の甲子園を経験(ただし初回は出場なし)し、第1回ドラフト会議でカープから4位指名を受けた。

 2年目の1967年には投手から外野手に転向。一軍に定着したのは背番号を「4」に変更した5年目の1970年で、レギュラーの座を獲得した翌1971年にはリーグ3位の打率.283という成績でベストナインにも選出。以後は1974年を除いて100試合以上の出場が続いた。チームが初のリーグ優勝を飾った1975年にも打撃で貢献。1976年から1978年にかけては3年連続打率3割越えし、1978年には球団記録の打率.348で首位打者にも輝いている。

 1979年、1980年の連続日本一の際には、レギュラーシーズンのみならず、日本シリーズでの活躍も目立った。まず1979年のシリーズでは2本塁打で最優秀選手賞を受賞。続く1980年のシリーズでは満塁打を含む3本塁打と暴れ、山本浩二や衣笠祥雄らとともにカープの黄金時代を形成した。だが1982年限りでトレードにより阪急に移籍。1985年の引退後、1989年から1993年にかけてはコーチとしてカープに復帰した。

 1990年入団の前間卓はドラフト3位。しかし背番号「38」を背負っていた間は一軍登板の機会はなく、開花したのは「47」に変更となった1996年だった。この年に一軍初登板、初勝利を記録し、先発・リリーフ双方で活躍。32試合に登板し3勝を挙げたが、翌1997年は6試合に激減。この年限りで現役を引退した。