“精密機械”の異名を取った昭和の大エース 針の穴を通す制球力で通算200勝を達成

現役時代は抜群のコントロールで打者を翻ろう。引退後はプロ野球解説者や、カープの投手コーチ(01年~04年)などを歴任。18年5月からは私立英数学館高校硬式野球部のコーチ(非常勤)に就任し、後進の指導にも当たっている。

 通算213勝、球団最多勝利の記録を持つ北別府学が、成人T細胞白血病に罹患していることを公表した(20年1月20日)。当面は治療に専念し、化学療法のほかドナーからの骨髄提供を待ち移植を受ける予定となっている。北別府といえば誰もが認める球史に残る大エースだ。甲子園などの大舞台には縁がなかったものの、故村上孝雄氏(当時の姓・宮川、元スカウト部長)に見い出され75年のドラフト会議でカープから1位指名を受けた。

 1年目から一軍に昇格し、4度の先発マウンドを経験する中で初勝利も記録。翌年には19歳の若さで先発ローテーション入りを果たしたが、すべてが順風満帆だったわけではない。入団直後の日南春季キャンプでは、初日から先輩投手のレベルの高さに度肝を抜かれたという。なかでも、もっとも驚いたのはプロの球速だった。

「初日の時点で自分がプロ野球の投手として生きるためには、スピード以外の部分で勝負しなければならないと悟りました。最初のキャンプで、それに気づいたのが良かったと思います」

 外木場義郎、池谷公二郎、金城基泰らの豪速球が、その後の“精密機械”と称される投球スタイルの指針となった。スピードではなく徹底的にコントロールを磨いた北別府は3年目に二桁勝利を飾り、4年目には17勝を挙げチームのリーグ優勝に大きく貢献した。

 その後も先発の柱として活躍を続け、82年には初の20勝を挙げ沢村賞を獲得。またリーグ優勝を果たした86年には二度目の最多勝、最優秀防御率、沢村賞を獲得する活躍でMVPにも輝いた。11年連続で二桁勝利を飾るなど、長らく投手王国と呼ばれたカープ投手陣を牽引した。『20世紀最後の200勝投手』の雄姿は、今も色あせることなく語り継がれている。

 94年の現役引退以降は山本浩二監督のもとで投手コーチ、プロ野球解説者など幅広く活躍。しばらくは解説者としての活動を休止し治療に専念することになるが、近い将来にまたお茶の間で目にする機会も増えるに違いない。

◾️ 北別府 学 Manabu Kitabeppu
鹿児島県出身/1957年7月12日生/右投右打/投手/都城農高-広島/76年入団-94年引退

【表彰・獲得タイトル・記録】
最多勝利(82年、86年)/最優秀防御率(86年)/最高勝率(85年、86年、91年。3回はセ・リーグタイ記録)/沢村賞(82年、86年)/最優秀選手(86年)/ベストナイン(82年、86年)/ゴールデン・グラブ賞(86年)/最優秀投手(82年、86年)/月間MVP(82年5月、86年9月、92年4月)/野球殿堂競技者表彰(12年)/広島県民栄誉賞(94年)/曽於市民栄誉賞(12年)/1500奪三振(史上32人目)/200勝(史上22人目)/オールスターゲーム出場(79年、80年、82年、83年、84年、88年、92年)