新井貴浩監督の就任会見から3週間。コーチ人事も続々と発表され、新体制への注目と期待はますます高まるばかりだ。広島アスリートマガジンでは、これまで、現役時代〜引退後にかけて新井監督の声をファンへ届ける独占インタビューを掲載してきた。ここでは、2019年1月号『永久保存版 新井貴浩』より、インタビューの一部を再編集して掲載する。

 2003年のカープにとって最大の目玉が、当時プロ5年目・26歳の若き4番・新井貴浩だった。

 しかし新井を待ち受けたのは、これまで経験したことのなかった長いスランプ。 73試合目で4番の座をシーツに譲り、1カ月後にはスタメン落ちまで経験した。 4番への思いは相当なものがある。新井は自分自身へのリベンジに燃えていた。

◆4番の重圧に苦しんだ1年

凡打に終わり、悔しそうな表情を浮かべる新井(2003年)

 2003年、新井貴浩はカープ第47代の4番打者を襲名。ファンも本人も夢が膨らむシーズンだったが、その結果はあまりにもほろ苦く残酷であった。だからこそ彼はその結果を謙虚に受け止めつつ、リベンジを強く心に誓った。  

「『4番のプレッシャー』があったのか、と周りの人からいろいろ言われるんですけど、僕自身は、それに対して何も言えません。何を言っても言い訳になりますし、言い訳したくないんです。4番だったからとか、他の打順だからとか、関係ありません」

 『今年4番を打ってみてどうだったか』と質問する前に、新井は第一声からこう切り出した。取材当日に行われた契約更改は約30分で終了。自身初のダウンでの更改にも、落胆の様子など微塵もなかった。

「ダウンということでした。今までずっとアップしてきたから悔しさはありますが、このくらいのダウン額ならいいと思うんです。球団からは、『来年頑張ってくれ』と言われました。また4番を目指して、とかそういうことは言われてはいませんが、とてもスッキリしてますよ」

 新井の視線は既に新しい年、2004年のシーズンに向いている。そんな新井に、苦闘した2003年について振り返ってもらうことにした。

「新4番と注目されて臨んだ春のキャンプだったんですが、僕自身コンディションは良くありませんでした。技術的な面よりも、むしろ精神的に未熟なんじゃないですかね。神宮での開幕3連戦は自分では良い方だと思ったんですが、その後の地元開幕の阪神戦から崩れてしまったようです。地元のみなさんにいいところを見せようとして、力んでしまった。そういうところが精神的に弱いんでしょうね。1年間通して、技術的にもまだまだですが、自分の精神的な弱さを痛感したシーズンでした」

 兄貴分であった金本知憲がFAで移籍した阪神が対戦相手だったのも、新井をさらに追い込ませたのかも知れない。この3連戦の打率5割と打ちまくった金本に対し、新井は10打数でわずか1安打5三振。翌日からは6試合連続無安打となってしまう。これが長く苦しいトンネルの始まりだった。4月、新井の最大の魅力であるホームランは1本も出なかった。

「4月いっぱいまでホームランが出なかったのは、自分でもさすがに気にしましたね。『早くホームラン打たなきゃ』と思っていたからそうなったんでしょう。きっとどこかで力んだり、自分を見失っていたのでしょうね。とにかく精神的に弱かったです。自分ではプラス思考で物を考えられると思っていましたが、今年自分の新しい面を発見しました。こういう弱いというか、繊細な面もあったんだなぁと。鈍感で、超プラス思考で、マイペースで、と思っていたけど、違った自分がいましたね」

 ぐっすり眠れず、深夜に何度も目が醒める日がこの頃から多くなってきたという。いつも天真爛漫というのがそれまでの彼のイメージだったが、今年ばかりはそうはいかなかった。  

「オールスター直前に6番に降格しましたが、『辛かったか』と聞かれると、辛くないです。僕は辛くなかったけど、そこまで4番を粘ってくれた監督が一番辛かったと思います。監督もいろいろ周りから言われて、僕以上にストレスが溜まったと思います。そういう中では僕を4番で使い続けてくれて、遂に4番から僕を降格させると決心されたわけだから、監督の心中を考えると、申し訳ないなと思っています。それが分かるから辛かったです」