それぞれの想いや信念を胸に、プロ野球の世界で戦い抜いたカープ戦士たち。

 現役生活を終え、これまでカープOBが歩んできた、野球人生の軌跡を辿っていく広島アスリートマガジンの人気連載。今回は、現在カープで二軍外野守備走塁コーチを務める廣瀬純コーチが、2017年にお届けした物語を振り返っていく。

2001年5月22日、旧広島市民球場で行なわれた横浜戦で三浦大輔からプロ初本塁打となる1号ソロを放った

◆一軍の壁を超えられなかった若手時代

 カープスカウトの苑田聡彦さんからの情熱を感じ、カープを逆指名することに決めた私ですが、ドラフト会議当日は大学の寮で指名を待っていました。カープから指名された後に寮の食堂で会見したことを覚えています。

 逆指名で入団が決まっていただけに緊張はあまりしませんでしたが、苑田さんがドラフト当日に寮まで駆けつけてくれて、カープの帽子を被せてくれた時は、改めてプロ野球選手になるという自覚が湧いてきました。

 またドラフト会議の会場にある大きな画面に自分の名前が写された時は、『家族が喜んでくれるだろうな』と思いました。

 大学で野球をするということは当然学費がかかります。そして寮生活にかかる費用、部費などさまざまな部分で両親に迷惑をかけていた自覚がありました。

 無理を言って大分から上京し、もしこの4年間でプロに進めなかったら野球を辞めるという覚悟を持っていただけに、プロ野球選手になることができてホッとした部分がありました。

 念願のプロ野球選手となった私ですが、前回書いたようにシドニー五輪でプロの世界で活躍している選手たちとプレーすることで、プロ野球という世界のレベルの高さをある程度理解していました。

 それだけにプロの世界に飛び込んでいくことについては、期待よりも不安が強かったです。実際にドラフトに指名された時も、『大丈夫かな?』『頑張れるかな?』と心配に思っていました。

 カープへの入団が決まり、背番号は26をいただきました。当時は新井貴浩さんが25番、そして木村一喜さんが27番を背負い、私はその間の26番。球団からは、この3人で球団を引っ張っていってほしいという思いがあり、私にこの番号を提示してくれたようです。

 ちなみに、私がシドニー五輪でつけていた番号は25番。それだけに入団当初は新井さんの背番号に憧れていた時期もありました(笑)

 そしてプロ野球の世界に入り、まず経験したのが春季キャンプ。そこで驚いたのは先輩方の打撃の質の高さです。

 前田智徳さん、金本知憲さん、緒方孝市さんなど錚々たる選手が揃っていた当時のカープの打撃練習を見て、私は度肝を抜かれました。また練習の量、質共に、大学時代とは比べものになりませんでした。