◆そこからケガとリハビリとの戦いが始まった

 なんとか開幕一軍に滑り込み始まったルーキーイヤーは新鮮で驚きの連続でした。

 プロ初出場を果たした2001年3月31日の中日戦。私は守備固めとしてグラウンドに立ちましたが、センターに昔からテレビで見ていた緒方耕市さんがいたことで、自分もプロ野球選手としてこの場所にいるんだと感じるなど、妙にふわふわした気分でした。

 4月5日の阪神戦でプロ初打席を迎えましたが三振。初スタメンに抜擢された4月8日巨人戦で念願の初安打を記録することができました。

 初打席のことはあっという間に終わり覚えていませんが、初安打の時はとにかく嬉しかったことを覚えています。その後2年目以降のシーズンでも初安打が出るまではソワソワしていましたし、やはり〝初めの一本〟というものは自分にとって特別だったと感じます。

 終わってみると1年目は合計80試合に出場することができました。当時思ったのは『もう少しやれたんじゃないか』ということ。

 数字を見ても即戦力としての役割が果たせたかというとそうではありませんでしたし、自分にとっても良いスタートが切れたとは言えず、物足りなさを感じていました。

 前回大学時代の監督から「外野手は打てなければ使えないぞ」と言われたと書きましたが、まさにその通りだと改めてプロの世界でも痛感しました。また1年目のシーズンで一番大きな出来事は左ひざの後十時靭帯を損傷して8月に一軍登録を抹消されたことです。

 そこから私のケガとリハビリとの戦いが始まりました。

 2年目以降の若手時代はケガもあり、年々出場試合数を減らしていきましたし、打撃について悩んでいた時期でもありました。2004、2005年は二軍ではよく打っていましたが、一軍ではどうにも打てない日が続いていました。

 今振り返ってみると自分の中に甘さがあったのだと思います。『二軍で打っているから大丈夫だろう』という気持ちがあったからか、なかなか一軍で結果を残すことができませんでした。

 二軍では特に打撃について悩むことはありませんでしたが、一軍になると打てず『自分には何が足りないんだろう』と考える日々が続いていました。

 1年目のシーズン終わりにも感じたことですが、即戦力と期待されているという周囲からの思いを感じ取っていただけに、早く一軍で結果を残さなければと自分自身にプレッシャーを余計にかけてしまっていた部分もありました。

 また今思うのは、当時は自分がどういうタイプの打者になりたいのかというイメージが全くなく、常に出たとこ勝負の打撃を繰り返していました。度重なるケガもあり、自分自身がどの方向を見ればよいか分からず、不安定な時代でした。

 試行錯誤を続けながら一軍でなかなか結果を残せない日々が続いていましたが、2006年には1年目以来となる80試合以上の出場を果たしました。

 決して率が稼げるわけではない、また一軍で活躍するための引き出しが数多くあったわけではない自分を、辛抱強く二軍の試合で起用してくれたのが当時の二軍監督・木下富雄さんでした。

 2006年に再び一軍定着への足がかりをつくれたというのは、木下さんが私を育ててくださったからこそだと思いますし、今でも恩義を感じています。