2005年から12年間をサンフレッチェで過ごし、数々のゴールとタイトル、あふれるクラブ愛でいまも多くの人々に愛されている佐藤寿人氏。

 共に紫のユニホームを着たチームメートがピッチ上で見せた才能、意外な素顔を、広島アスリートマガジンの連載『エースの証言』で振り返っていく。

 今回は、岡山県出身で2001年から広島でプレーした李漢宰(リ・ハンジェ)をフォーカス。北朝鮮代表として日本代表との対戦経験も持つMFとともに戦った日々を、佐藤寿人氏が振り返る。

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試合終了後、ひろしまビッグアーチ(現・エディオンスタジアム広島)のピッチに整列する李漢宰と佐藤寿人ら。

◆モチベーションを落とさず、やるべきことをやり続けた

 ハンジェは、常にレギュラーというわけではありませんでした。監督が2006年途中に小野剛さんからミシャ(ペトロヴィッチ監督)に代わる中で、控えになった時期もあります。ケガで戦列を離れたこともありますが、どんな状況でもモチベーションを落とすことなく、やるべきことをやり続けていました。

 弱い部分を全く見せなかったわけではないですが、つらいときでも歯を食いしばって、常に一所懸命プレーする。調子が良いときに良い振る舞いができるのは当たり前で、そうでないときも頑張っている姿からは仲間として、多くのことを学ばせてもらいました。

 ハンジェの2009年限りでの契約満了と退団が発表された後のJ1リーグ最終節、僕はキャプテンマークの裏にハンジェの背番号『16』を書いて臨みました。一緒に先発出場することになった試合前に「今日はハンジェのために絶対ゴールを決めるよ」と伝え、そのとおりに先制点を決めたときは本当にうれしかったです。ハンジェもCKから2点目と3点目をアシストして有終の美を飾り、僕は4点目を決めるとファン・サポーターの皆さんのスタンドの前まで走って、キャプテンマークの裏側を見せました。

 勝利で送り出すことができましたが、試合後は涙が止まらなかったです。プロの世界ですから毎年あることとはいえ、受け入れがたい特別な思いがありました。広島を離れる前の送別会にたくさんの選手が集まったのは、ハンジェの人望の厚さを物語っていたと思います。

 その後も札幌、岐阜、町田でプレーしたハンジェとは、常に連絡を取り合いました。ハンジェが町田、僕が名古屋に所属していた2017年など、同じJ2でプレーしたシーズンで対戦する前日に、宿泊先のホテルでコーヒーを飲みながら語り合ったこともあります。

 2014年から引退するまで在籍した町田ではキャプテンも務めました。サンフレッチェ時代に見せていた熱や影響力を考えれば、まさに適任だったと思います。サンフレッチェとは違って成長途上の、いろいろなことを変えていく必要があるクラブで、ハンジェが果たした役割は大きかったはずです。

 2020年限りでの現役引退は、僕と同じタイミングになりました。翌年から2年間は町田のクラブナビゲーターとして活動し、今年から強化部強化担当を務めています。コロナ禍の影響が続いたので引退後は会えていませんが、選手時代と変わらない熱量で仕事に取り組んでいるでしょう。初のJ1昇格に向けて素晴らしいスタートを切った町田で、さらにどんな仕事をしていくのか楽しみです。

 ハンジェは僕にとって、サッカーへの熱を与えてくれる存在でした。後輩には良い背中を見せていて、サンフレッチェ以外のクラブでも同じだっただろうと思います。自分のことだけでなく、チーム全体を巻き込みながら、どうすれば勝てるのか、どうすれば良いプレーができるのか、常に追求していました。

 セカンドキャリアでも、またハンジェの熱を感じたいです。岡山県出身ですから、サンフレッチェで一緒に仕事をする機会があるかもしれません。選手ではない立場になっても、お互いに刺激し合いながら、日本のサッカー界のために貢献していきたいと思っています。

《プロフィール》
李漢宰(り・はんじぇ)
1982年6月27日生、岡山県出身
ポジション・MF
サンフレッチェ広島/2001〜2009年
2001年に広島朝鮮高から広島に加入。2003年以降に出場機会を増やし、2005年には北朝鮮代表として日本代表とも対戦した。2009年限りで契約満了となった後は札幌、岐阜、町田でプレー。2020年限りで現役を引退して町田のスタッフとなり、2023年から強化担当。