内野の要としてチームを支える遊撃手。広い範囲をカバーし、 難しい打球をものともせず、華麗にグラブをさばくその姿は、 野手の花形ともいわれている。カープの歴代遊撃手にも、日本記録保持者、 盗塁の名手、ベストナインなど錚々たる面々が名を連ねる。なつかしのレジェンドから三連覇の立役者まで、 広島のショートを守った男たちの活躍を振り返ってみよう(過去の掲載記事を再編集)
【前編】の今回は、機動力野球の礎を築いたあの名監督から、『走る赤ヘル野球』を体現したあの名ショートまでを紹介する。
◆『機動力野球』の礎を築き、球団初の日本一に導いた名将/古葉竹識
熊本県出身。日鉄二瀬を経て、1958年に遊撃手として広島に入団。徐々に成績を上げると、1963年には長嶋茂雄(巨人)とわずか1厘差という熾烈な首位打者争いを演じた。
1964年には自己最多57盗塁を記録し、盗塁王を獲得。1970年に南海に移籍し、翌年限りで現役引退。コーチとして広島に復帰すると、1975年にはジョー・ルーツの後任として監督に就任。シーズン途中の監督就任にもかかわらず機動力を活かした野球で快進撃を続け、球団史上初のリーグ優勝に導いた。
遊撃手としての現役時代から監督時代まで、一貫して足を使ったスタイルを重視し、『機動力野球』の礎をつくりあげ、監督としてカープを4度の優勝、3度の日本一に導いた。
◆初優勝にショートを守り、いぶし銀の打撃でチームに貢献/三村敏之
広島商業から1966年ドラフト2位でカープに入団。翌1967年から一軍に定着すると、主に遊撃手・三塁手として出場機会を得た。着実に結果を残しながら遊撃手のポジションを確保すると、1972年にはベストナインにも選出された。
1975年には古葉竹識監督のもと、セカンドを守る大下剛史と二遊間を組み、1・2番として打線もけん引。カープ史上初のリーグ優勝に大きく貢献した。
以降は髙橋慶彦、木下富雄らの台頭もあり遊撃手のポジションを譲ったものの、1979年には持ち前の守備力と粘りの打撃でカムバック賞を受賞。
現役引退直後から長年カープでコーチを務め、1994年からは一軍監督に就任。前年まで苦戦していたチームを4年連続Aクラス入りに導き、緒方孝市、金本知憲らを育て上げた。