1980年代後半、『炎のストッパー』としてカープの勝利に貢献した津田恒実。没後32年、33回忌を迎えた。炎のストッパーと呼ばれた津田氏がプロ野球でプレーしたのは1982年から1991年の10年間。先発投手として球団初の新人王、故障との戦い、そしてストッパーに転向し優勝に貢献……多くの人々の記憶に残る野球人生を振り返る。

マツダ スタジアムの選手通路に設置されている『津田プレート』

■1981年/ドラフト1位で広島東洋カープに入団

 南陽工高時代は1年からエースとなり、甲子園出場2回。その後社会人野球・協和発酵で速球派投手として評価を上げてプロ注目の投手となった。1981年秋のドラフトでは、古葉竹識監督(当時)率いるカープから1位指名を受けた。

■1982年/球団初の新人王に輝く

 プロ入団時は背番号『15』を背負っていた津田。1年目から先発ローテーションに定着すると、4月10日の大洋戦でプロ初登板を果たす。同月29日の大洋戦でプロ初勝利をマークすると、シーズンを通じて11勝6敗をあげ、カープ球団初となる新人王に輝いた。同年の連盟表彰では、当時エースとして20勝を上げ沢村賞に輝いた、北別府学とともに表彰式に出席した。

■1986年/抑えに転向し、胴上げ投手に

 1984年から2年間、右手血行障害に苦しんだ津田。1986年にストッパーに転向し、22セーブを記録するなどフル回転の活躍で優勝に貢献した。この年は自身2度目となるオールスターゲームにも出場。10月12日のヤクルト戦(神宮)での優勝決定戦で胴上げ投手となる。同年、『カムバック賞』と『日本シリーズ優秀選手』を受賞。

■1987〜1988年/ 不動のストッパーとして君臨

 1986年以降は、カープ投手王国不動のストッパーに定着。1987年には抑えとして18セーブをあげ、防御率は1点台をマーク。1999年には20セーブを記録するなど、リーグを代表する投手として活躍を続けた。

■1989年/最優秀救援投手に輝く

 山本浩二監督就任1年目の1989年、自己最多の51試合に登板し、12勝5敗28セーブを記録し、最優秀救援投手に輝いた。また、この年セ・リーグで活躍したクローザーに送られる『ファイヤマン賞』も受賞。

■1991年/病に倒れ、シーズンオフに退団

 1990年は故障続きで4試合の登板に終わる。1991年はシーズン前から体調不良が続き、4月14日の巨人戦が現役最後の登板に。その後闘病生活に入り、11月に退団となった。

■1993年/脳腫瘍により福岡市内の病院で逝去

 およそ2年3カ月に及ぶ闘病の末、7月20日に永眠。享年32歳という若さだった。

■2012年/北別府氏と共に野球殿堂入り

 1993年7月20日、プロ野球オールスターが開催される日に天国に旅たった津田。没後18年目の2012年1月、カープ時代の先輩投手、故・北別府学と共に野球殿堂入りを果たした。