各球団スカウトの情報収集の集大成であり、球団の方針による独自性も垣間見られるドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の眼力で多くの逸材を発掘してきた。

 ここでは、かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏がカープレジェンドたちの獲得秘話を語っていた、広島アスリートマガジン創刊当時の連載『コイが生まれた日』を再編集して掲載する。

 今回は、1975年のドラフト4位で地元広島工高からカープに入団。魔球パームボールを武器に、リリーフとして活躍した小林誠二の入団秘話をお送りする。

◆引退が決まり現役最後の1球に小林はパームボールを投げました。きっと後悔はなかったでしょう。

 カーブ、スライダー、カットボール、フォーク。現在のプロ野球界ではこのような変化球が主流となっています。一方、ドロップやナックル、パームボールといった特異な変化球を投げる投手は、ごく希な存在となってきました。そのため、そういった変化球を武器にする投手は、それだけで存在感が大きくなります。

 カープにも特異変化球の1つであるパームボールを最大の武器に活躍し、1984年のリーグ制覇と日本一に貢献した投手がいます。それが小林誠二です。

 私が小林を見たのは「ケンコー」の愛称で親しまれている広島工高の3年生のときでした。当時、私はスカウト1年目で、主に中四国、そして希に九州を担当。精力的にいい選手はいないかと歩き回っていました。そのときに、ちょうど小林を見つけたのです。

 初めて見たときの印象としては「ひょっとしたら、ひょっとするかも」というくらいで、すぐに獲得しようというものではありませんでした。ただ、可能性を感じることができたので、リストアップはすることにしました。

 プロで活躍している頃の小林と聞けば、多くの人が“サイドスローからの緩急を使った投球が持ち味”とイメージするはずです。しかし、高校時代の小林は横からではなくスリークォーター気味のフォームから140kmキロ台のストレートとシュートを武器にした本格派の印象が強い投手でした。

 そんな小林を指名しようと思ったのは、彼がセンバツの甲子園で活躍したこともありますが、一番はシュートが素晴らしかったためです。小林のストレートは140kmは出ていましたが、特に「速いな」という印象は受けませんでした。しかし、シュートはとてもいいキレをしていたのを覚えています。

 私も現役時代にシュートを投げていました。私が投げていたシュートというのは、シンカー気味にスッと落ちる球。スピードもストレートよりも少し落ちるものでした。それに比べ、小林のシュートは、スピードもストレートとあまり変わらず、打者の手元でクッと中に入ってくる感じのものでした。そのため、打者がストレートと思いバットを出しても、詰まってしまい内野ゴロや内野フライというケースが多かったのです。

 そのシュートを見たとき「先発はちょっと難しいかもしれないが、中継ぎとしてならプロでも活躍できるのではないか」と思いました。

 また、シュートが素晴らしかったことに加え、小林が地元広島出身だったことも指名の大きな決め手となりました。当時のチーム方針は、地元広島を含めた中国地方、そして準地元であった九州の選手から獲得しよう、というものでした。

 以前も書きましたが、カープは市民球団ですから、まず広島の人が応援したくなるというか、愛着を持ってもらうことが一番大切だと考えられていました。そのためにはやはり地元出身の選手の獲得は不可欠なものでした。だから、この年もそうですが、ドラフトでは必ず先ほど挙げた地域から選手を指名していたのです。

 プロ入り後の小林はケガに泣かされ続けた選手でした。入団してすぐに肘を故障し、4年目には肩までも痛めてしまいました。そんな小林がプロで成功したのは、やはり魔球『パームボール』があったからでしょう。

 肩をケガする前年、小林はアメリカの教育リーグに参加しました。そこで現地のコーチからアドバイスを受け、フォークやチェンジアップなど様々な落ちる球を試し、習得に向けて試合に臨んだのです。その中で、メジャーリーグを目指す選手達に通用したのが、親指と小指で球をはさみ、球離れの際に抜くように投げるパームボールでした。

 そのパームボールを操れるようになった小林は、1980年オフに西武へトレードされてしまいますが、1984年カープに復帰します。そして、55試合に登板し11勝4敗9セーブと大車輪の活躍で、リーグ優勝に大きく貢献。日本シリーズでも活躍し、日本一の獲得の立て役者となりました。

 小林が投げる魔球・パームボールは、実にきれいな軌道を描いていました。手から放れた瞬間にフワッと浮き上がり、打者の手元で一旦停止したように見えてからストンと落ちる。打者の視覚を幻惑し、見るものに美しさを感じさせたその球に、私は見入ってしまったことを覚えています。

 しかし、パームボールの投げ過ぎで小林の肘は悲鳴を上げてしまいました。

 シュートよりも肘に負担がかかるパームボール。ましてこれまで肘を故障したことがある小林ですから、肘へのダメージは他の選手よりもかなりのものだったと思います。結局、小林はパームボールで選手生命を縮めることになりました。

 しかし、パームボールを武器に西武とカープで2度も胴上げ投手となりました。もし、パームボールがなければ、きっとこのような成績を残すことはできなかったでしょう。

 引退が決まり現役最後の1球に小林はパームボールを投げました。そういう意味でも、パームボールが現役生活にピリオドを打つことになったことに対して、きっと小林は後悔していないはずです。

 【備前喜夫】
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。

【小林誠二】
1958年1月22日生、広島県出身。広島工高-広島-西武-広島(1976年ー1988年引退)。1975年ドラフト4位でカープに入団。入団後、肘と肩を痛めたことが影響し、一軍に定着できない年が続いたが、パームボールを習得したことで才能が開花。西武からカープに復帰した1984年には11勝9セーブを挙げる活躍。主にリリーフでの登板ながら防御率2.20で最優秀防御率のタイトルを獲得した。リーグ優勝決定試合ではプロ初完投勝利を達成。日本シリーズでも勝利投手となり日本一に貢献した。引退後は中日などで投手コーチを務めた。