カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

 悔しさを力に変えることができる選手は成長する。今回は、黒田博樹、大竹寛のエピソードをもとに、苑田スカウトの記憶に刻まれている“表情・仕草”を紹介する。

1996年ドラフト2位で入団した黒田博樹選手。日米通算203勝を挙げた右腕の背番号15は永久欠番となっている。

◆ 悔し涙は無駄にならない。逆境こそ成長のチャンス

 人間の真の力は逆境のときに表れる。失敗からどう立ち上がり、どんな対応を取るのか。ここで真価が問われてくる。

 打者がチャンスで打てなかったとき、投手が打たれたとき、その表情や仕草をベテランスカウトは見逃さない。

「投手が抑えられなかったとき、イニングの間にベンチのなかでの様子を見るようにしています。気落ちして下を向く選手は伸びません。一瞬、『このやろう』という表情でグラウンドを見据えるような人は良いですね。打者は、チャンスで打てなかったときの反応です。バットを投げるようなのはダメですが、悔しそうな表情は分かります。こういうところを見れば80%くらい分かるものです。特に、ある選手をドラフト候補に入れるか入れないか判断を迷っているような場合には、とても参考材料になりますね」

 金本知憲、黒田博樹、栗原健太、大竹寛(現巨人)、野村祐輔、これまで苑田が手がけてきた選手からは、例外なく、そんな表情を鮮明に思い出すことができる。

 「黒田なんかは、何とも言えない悔しい表情をしていました。目を閉じることは決してなく、奥歯を噛みしめる。一瞬の間に見せるこんな表情を見ると、『いいなぁ』と思ったものです。絶対、この投手はどんどん成長すると思いました」

 さらに、苑田は黒田の投球からも強い気持ちを読み取っていた。

「例えば、インコース高めで打たれたなら、同じバッターに、もう一度同じコースの球を投げることがありました。ストレートを打たれたらカーブ、インコースを打たれたらアウトコース。こういう投手が多いはずですけどね」

 苑田には持論がある。

「良い選手は、やられたらやり返すというところがあります。ケンカではありませんが、そういう気持ちは大事です」

 2001年にドラフト1巡目で浦和学院高から入団した大竹も、気持ちの強さを感じさせる選手だった。

「逃げない選手でした。インサイドに投げて打者がムッとするでしょ。すると大竹はもう一球内角に投げ込みます。負けず嫌いな選手でした」

 そんな大竹を知るからこそ、プロ入り後、黒星が先行しマウンドで苛立つ姿を歯がゆくも感じた。

「プロ入りしてから、神宮球場のクラブハウスで声をかけたら、『僕には力がありません』と言うのです。投球どうこうでなく、大竹はそんな弱気な選手ではありません。その言葉が残念でした」

 しかし、大竹は、投球術を磨き、故障を乗り越え、カープの苦しい時代を支えるエースに成長していった。「大竹が良くなった」松田元オーナーからかけられた言葉が、苑田は最高に嬉しかった。

 「カープでも良いときの大竹は、打たれても平然としていました。もともと彼は、強気で負けず嫌い。いつも明るくて、満面の笑顔で大きな声で挨拶をしてくれる選手です。浦和学院高時代の大竹の笑顔と強気が戻ってきて嬉しかったですね」

 悔しさを力に変えられるかどうか。現役時代、苑田自身にも、この力を問われた経験がある。プロ入り4年目の1967年、彼はオープン戦から打撃が絶好調だった。にもかかわらず、開幕二軍スタートを告げられた。

 この夜ばかりは九州男児の苑田も、悔しさのあまり涙した。広島の歓楽街・流川で深夜まで酒を飲んだ。そうせずにいられなかった。

 一軍が夜行列車で遠征に出発するときには、駅まで見送りにいった。

「見送りにいく必要はなかったですが、僕は、あの当時から執念深い人間でしたから」

 『絶対、一軍に定着する』。苑田は強く誓った。このシーズン、彼は一軍昇格を断るという、今なら考えられないような行動にも出た。

「二軍の試合を終えて宿舎にいたら、一軍にケガ人が発生したらしく、着替えて一軍へいけと球団のマネージャーから告げられました。でも、断りました。次に一軍に上がったら、もう二軍落ちは味わいたくないと思っていました。しっかり力をつけてから一軍に上がりたいと伝えました」

 すると、苑田の思いを聞いたマネージャーは「分かった」とだけ言い、それ以上は一軍いきを強いなかった。

 このシーズンの6月に一軍昇格を果たした苑田は、シーズン終盤まで打率3割をキープ。自己最多の109試合に出場し、キャリアハイの107安打を放った。

「打てなかったら、その夜はバットを振りました。これがないとダメです。悔しいから研究する、悔しいからスイングする。その気持ちがないと、ベンチには入れません。その気持ちが人の3倍4倍ある人が、レギュラー選手になるのです。悔しさの裏には、人一倍の研究と練習があります」

 後に、苑田が開幕二軍となった真意を首脳陣に聞いた。

「(二軍に)落とされて、腐って自分をパーにするか、這い上がってくるか。監督がそこを見てみたいという話だったそうです」

 この当時の監督こそ、カープの草創期を支えたエースの長谷川良平であった。通算197勝の『小さな大投手』は負けず嫌いでも有名であった。長谷川は、若き苑田の『屈しない魂』を試した。彼は、その魂を持っていた。だからこそプロ野球界で約50年にわたって生き残ってこられたのだ。悔しさは力に変わる。いや、力に変えられる者だけが、厳しい世界で勝ち残っていくのである。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、1964年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、1969年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に1975年の初優勝にも貢献。1977年に現役引退すると、翌1978年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。