背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

巨人から移籍した一岡竜司投手。カープで能力が開花し、リリーフとして3年連続のリーグ優勝に大きく貢献した。

 今回の背番号は「30」。選手だけでなく、3人の監督が背負ったこともある背番号だ。中でも特筆すべきは、1950年の球団創設時からの持ち主だった石本秀一だろう。

 石本について詳しくは、「30」の次に使用した「50」の項で説明している。多くの球団で采配を振るっていたが、故郷・広島に市民球団が創設されると知ると発起人に直訴し、初代監督に就任した「伝説の監督」だ。

 カープの歴史がスタートしてからも資金面や運営の不安定さを自ら奔走することで補い、地元企業の後援を取り付けたり後援会を発足させるなどして、チーム存続の危機を再三救った。まさにこの人がいなければ、現在に続くカープの歴史はなかったと言える人物だ。

 石本の後は内野手を兼任した白石勝巳、少し空いて1966年から2年間背負った長谷川良平の3監督が「30」を着けて指揮に立ったが、1968年以降は全て現役選手となっている。

◆長きに渡りチームを支える高信二

 ドラフト経由の新入団選手は6人が着けたが、現在までのところ、指名順が最も早いのは2位指名で1986年入団の高信二。東筑高校で選抜に出場し、カープの2位指名を受けた高は3年目の1988年に一軍初出場。守備力の高さを評価され、以後は守備固めでの出場も多かった。

「30」を着けたのは1990年までの5年間で、中日に移籍した長嶋清幸が希望してスタートした背番号「0」の2人目の持ち主となり、1998年限りで現役を引退。翌1999年からはコーチに就任し、今季は二軍監督を務めるなど、チームを支え続けている。

 高の後を継いで1991年から「30」を着けたのは音重鎮。1987年に5位指名で中日に入団した音は4年目の1991年に広島に移籍。外野フェンスをよじ登ってホームラン性の当たりをキャッチするなどガッツあるプレーで知られ、1995年にはキャリア最高の118試合に出場し、規定打席にも到達。外野手としてゴールデングラブ賞も受賞。この年限りで古巣・中日に戻った。