背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。
背番号「0」は以前に紹介したが、今回は「00」。「算数では出てこない数字」の登場だ。
日本プロ野球界で背番号「00」が初めて登場したのは1988年。阪神のジョーンズが着けたものだった。その後、他の球団にも波及し、現在は12球団全てで設定されている(現時点で使用者がいない球団もあり)。
カープの「00」は、1991年、アレンが「49」から変更することで初登場。1983年にシアトル・マリナーズでMLB初試合を経験したアレンはデトロイト・タイガース、クリーブランド・インディアンスを経て1989年にカープに入団。来日初年は前半に故障もあったが、最終的に80試合に出場。打率.300で11本塁打という成績を残した。
翌1990年は代打中心となったがシーズンを通じて25本塁打。4打席連続本塁打、1試合のなかで代打満塁本塁打とサヨナラ本塁打を打つなど、印象的な活躍が目立った。そして1991年に「00」を着けたわけだが、この年は不調に悩まされ、試合出場も68試合に減少。9本塁打、打率.233と振るわなかったが、日本シリーズでは初打席で本塁打を放つなど2本塁打。オフに退団し、在籍期間は3年だったが、カープの歴史にしっかりと名前を刻んだ。
その後は2年間のブランクを挟んだ後に仁平馨、笘篠賢治ときて、2000年からは嶋重宣が2003年まで使用。嶋は「00」の前は「34」、後に「55」を着けており、どちらの項でもそのキャリアを振り返っているので、そちらを参照にしてもらいたい。「00」を着けていた間で言えば、2000年は前年の47試合に次ぐ41試合に出場。しかし打撃成績は振るわず、続く2001年~2003年の3年間合わせて出場は20試合にとどまるなど、「00」での目立った活躍は見られなかった。