1975年、カープが球団創立26年目にしてリーグ初優勝を成し遂げた。創立の1950年から優勝前年までAクラスに入ったのは、わずか一回のみ。リーグのお荷物と呼ばれた球団の快進撃は、まさに奇跡とも言えるものだった。ルーツ監督のチーム革命から始まった激動のシーズンの舞台裏を、先発3本柱の一角として優勝に貢献した池谷公二郎氏が振り返る。

初優勝メンバーとして当時の思い出を語る池谷公二郎さん

 3年連続最下位で迎えた1975年。チームの改革に乗り出した球団は、球界初となるメジャー出身者を新監督に抜擢した。再建を託されたジョー・ルーツ監督は大型トレードだけではなく、選手たちに闘争心を植え付けるため帽子の色を青から闘志を象徴する赤に変更。次々と新たな改革案を打ち出していった。中でも池谷氏が印象に残っているのが、遠征の方法が大幅に変更されたことだという。

「それまでの遠征は選手たちが荷物を運んでいて、特に夏場は体力的に厳しい面がありました。そこで荷物運搬専用トラックを取り入れてくれ、一軍選手が移動する際は新幹線のグリーン車に変えてくれました。あまり語られることがありませんが、そういう部分から改革してくれたのは選手にとっては大きなことでした。きっとルーツには『一軍選手は一流の扱いをしなければダメだ』という考えがあったのだと思います」

 わすか15試合で電撃退任したルーツだが、『可能性があれば失敗を恐れず挑戦せよ』という教えは選手間に植え付けられた。野崎泰一ヘッドコーチが代行監督を4試合務め、その後、古葉竹識一軍コーチが監督に就任するころにはチーム状態も上向きに。通常なら鯉の季節が過ぎれば脱落するのが常だったカープが、この年は粘りの戦いを見せて5月17日には単独首位に躍り出た。

「古葉さんは南海時代(現ソフトバンク)に野村克也監督の下でコーチを務めていた経験もあり、足を使った攻撃、右打ちなどのケース打撃を確立するなど、機動力野球、いわゆる古葉野球を推進されていったように思います」