『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

サンフレッチェの右サイドに欠かせない存在だったミキッチ

◆最長3年背負ったのは、3回のJ1リーグ制覇に貢献したサイドアタッカー

 今回紹介する『14』は、世界のサッカー界でも有名な背番号の一つだ。オランダ代表やアヤックス(オランダ)、バルセロナ(スペイン)などで活躍したスーパースター、ヨハン・クライフがつけていたことで知られる。

 いきなり話が横道にそれるが、クライフが14番をつけるようになったのは、アヤックスでプレーしていた1970年。オランダのリーグが固定背番号制となり、クライフが希望したのが14番だった。エース格がつける9番や10番は、当時すでに別の世界的な選手を象徴する背番号になっており、「私がそんな背番号をつけたら紛らわしい」と言ったという。他の選手とは違う存在になるという意思を示したエピソードの通り、実際に選手として、現役引退後は監督としても、長く語り継がれる人物となった。

 Jリーグが固定背番号制となった1997年に14番をつけたのは、FW盧廷潤(ノ・ジョンユン。当時の読みはノ・ジュンユン)だった。以前の連載で11番を取り上げたときに紹介した韓国籍Jリーガーのパイオニア。1994年サントリーシリーズ(ファーストステージ)優勝に貢献し、韓国代表として1994年と1998年のワールドカップにも出場している名選手だ。

 ただ、この年限りでサンフレッチェを離れてオランダのクラブに移籍。その後も1998年はMF皆本勝弘、1999年はFW大木勉と、14番の選手は1年ごとに変わった。2000年はプロ2年目のFW高橋泰がつけ、初めて2年続けて14番をつける選手となったが、3年目の2002年は9番に変更。その2002年からMF山形恭平が14番を引き継いだものの、やはり2年間で変わり、2004年のMF佐藤一樹、2005年のFW木村龍朗は1年間のみだった。

 初めて3年続けて14番をつけたのは、2006年に加入したMF戸田和幸だった。髪を真っ赤に染め、モヒカンにして日本代表の中心として活躍した2002年日韓W杯の後、欧州や日本の複数のクラブを経て加入。豊富な経験を生かし、まだプロ3年目だったMF青山敏弘を厳しく叱咤するなど、チームの精神的支柱ともなった。ただ、サンフレッチェがJ2に降格した3年目の2008年は出場機会が減り、シーズン途中に期限付き移籍で退団している。

 ここまで最長3年の背番号14は、翌2009年からクラブ史に残る選手が長きにわたって背負うことになる。クロアチア国籍のMFミキッチだ。スピードと運動量を生かしたドリブル突破やクロスだけでなく、守備も忠実にこなし、すぐにサンフレッチェの右サイドに欠かせない存在となった。

 選手やファン・サポーターから「ミカ」の愛称で親しまれ、2012年以降の3回のJ1リーグ制覇にも大きく貢献した。2017年限りで退団するまで9年間の在籍は、クラブの外国籍選手史上最長。本人にとってもプロキャリアで最も長くプレーしたクラブとなった。

 2018年、長く不動だった14番の後継者となったのはMF森島司だった。14番は四日市中央工高(三重)時代もつけていた愛着のある番号で、練習のときにストレッチをしながらミキッチに「14番をください」と直談判したという。

 2018年は負傷離脱などで不本意な結果に終わったが、2019年途中から大ブレイク。2シャドーの一角で攻撃の中心となり、Jリーグ初ゴールを挙げるなど一気に評価を高めた。本人にとってはラッキーナンバーとも言えるが、2年間プレーしたのち、強化部の意向もあって2020年からは10番をつけている。

 その2020年から14番をつけているのは、ブラジル国籍のエゼキエウ。足立修強化部長は加入当初に「良い若手がいると、2年くらい前から見ていた」と明かしており、「一番のストロングポイントはスピードで、一人で打開できる技術も持っており、多くのゴールを演出できる」と期待を寄せていた。

 だが、なかなか本領発揮には至っていない。活躍した時期もあったが負傷離脱が多く、3年目の今季も開幕後に治療で一時ブラジルに帰国し、再来日後も6月末時点で戦列に復帰していない。持ち味を発揮し、好調のチームをさらに加速させるだけのパフォーマンスを見せてくれることに期待したい。