甲子園を目指し、仲間と白球を追いかけた高校時代。そこで培った経験は、球児たちのその後の人生にも大きく影響を与えている。ここでは、それぞれの道に進んだ元・球児たちが、高校3年間を振り返る。

 今回は、プロ野球界で記録にも記憶にも残る名プレーヤーとして活躍した、新井貴浩氏に高校時代を振り返ってもらった。

 ドラフト6位入団から猛練習の末に通算2000安打、300本塁打を記録、さらにカープの三連覇にも大きく貢献した新井氏が、自身の原点とも言える高校時代、そして高校球児への想いを語る。

広島工業時代の新井貴浩氏(写真後列・右から5人目)

◆県工で強い高校に勝つのがカッコいい

 僕が少年時代の頃は広商(広島商業)、広陵が強い時代で、そこで甲子園を目指すというのが野球少年からすると定番のようなところがありました。

 僕は最初、広商に行きたいなと思っていたのですが、中学の先輩から「県工(広島工業)に入って、強い高校に勝つのがカッコいいだろ」と言われて、それに感化されて県工に決めました(笑)。

 入学当時は同学年の野球部員は100人以上いました。最初は1年生だけで練習をするのですが、とにかくずっと走っていました。それがすごくキツかったですね。中でも印象に残っているのはタイム走です。学校の練習グラウンドの一塁線からレフト方向に向かって往復走る、三塁線からライト方向に向かって往復走るという練習です。県工は当時サッカー、ラグビーも強くて同じグラウンドを使用していて、その構造上三塁側スタートの場合は150mくらいなんですが、一塁側から走る場合の距離が長くて……これは本当にしんどかったですね(苦笑)。

 当時は夜に練習が終わって朝練、という毎日を過ごしていましたが、夜はご飯を食べながら寝そうになるくらいでした。それで次の日は朝練に備えて5時起きですからね。そのくらいキツかったですけど、両親も大変だったと思いますし、今思っても感謝しかありません。

 厳しい練習を耐えることができたのは、やはり「負けたくない」という気持ちが強かったからだと思います。苦しいことから逃げないという強い気持ちを鍛えられたのは、高校時代に培われたのかもしれません。