◆シーズン中の配置転換。コーチにも厳しさを持って接していた
また浩二さんは、コーチ陣に対しても厳しさがありました。
個人的な思い出は優勝した1991年です。監督就任3年目、私は一軍守備走塁コーチに就任しました。しかし、春のキャンプで「お前、二軍に行ってこい」といきなり配置転換を指示されました。
当時、私にもまったりとしたところがあったのかもしれません。その後、オールスター前にサードコーチャーを担当していた高代(延博)と再び配置転換されました。シーズン中にコーチを配置転換するというのは、選手たちにとってもインパクトを与えたと思います。
さらに、あの年は津田恒実が病気で離脱したこともあり、チームに『津田のためにも優勝しよう』と一丸になっていました。監督の厳しさ、そしてさまざまな要素が絡み合って、選手たちは優勝という同じ方向を向いていました。結果的に優勝することができましたが、選手たちも私たちコーチ陣も監督の厳しさに耐え、それが実を結んだ上での優勝だったので、浩二さんを胴上げできて本当にうれしかったですね。
2001年、浩二さんが二度目の監督就任時、私は二軍監督という立場で一緒に戦わせていただきました。
当時はFA制度の影響もあって、金本知憲ら主力選手が抜けるなど戦力が整わない時期でした。周囲からも優勝は難しいと言われていましたが、それでも一軍監督として当然優勝を目指さなければなりません。それだけに、浩二さんもあの時代は苦しさがあったと思います。私は二軍監督として、なんとか浩二さんの役に立ちたいという思いがありましたし、ある程度成長し、使えると思った選手は推薦させてもらいました。
当時チームの成績こそ思わしくありませんでしたが、良い素材を持った若手選手が何人も育っていきました。最初に監督をされていた時には江藤智や前田智徳が育ちましたが、二度目の監督時には、新井貴浩や栗原健太など、多くのスラッガーが生まれました。
もちろん育てるには時間を要しますし、我慢強さも必要になるでしょう。そういう意味で浩二さんはとても我慢強い監督でもあったと思います。
私は古葉さん、阿南さんの元でプレーをさせていただきましたが、監督としてのカリスマ性でいえば、浩二さんはナンバーワンでしたし、厳しさの中に温かみのある監督でしたね。