背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

カープでは永川勝浩(165)、大野豊(138)、佐々岡真司(106)に続いて通算100セーブを達成している中﨑翔太投手。

 今回のテーマである背番号『21』は、1954年から1962年までの9年間、内野手の米山光男(1955年、1956年の2年間のみ登録名は「米山祐昭」)が着けた以外は、今に至るまでずっと投手の番号である。

 前述の米山の後、1963年に『13』から変更され『21』を背負ったのは龍憲一。東映からカープに移籍すると、肩の仕上がりが早く連投が効くという理由から、球団初のストッパーに任命された。ワンポイントもロングリリーフもこなすタフさも活かし、1965年には64試合に登板し18勝。うち17勝が救援勝利で、これは当時の球団記録となった。

 龍が1970年限りで引退すると、『21』はドラフト1位入団の佐伯和司に引き継がれた。広陵高時代には2度の甲子園出場を経験し、速球と変化球を駆使して次々と三振を奪う一方、プロ顔負けのビッグマウスでも評判となった個性派だ。カープ入団後は初年から一軍で4勝を挙げ、3年目の1973年には新たな武器・フォークボールで頭角を現し、19勝を挙げてエースとなった。

 翌年は故障のため不調に終わるも、1975年はさらにスライダーも修得してリーグ最多の3完封を含む15勝を挙げ、チーム初優勝に貢献した。1976年限りで移籍した日本ハムでも先発の一角を占め、1981年には広島に復帰して再び『21』を背負うも、白星なく翌1982年限りで現役を引退した。その後は打撃投手、スカウトを経て2001年までコーチを務めた。